夜が明けると、信じがたい光景が広がっていた。電柱に車が引っかかり、目の前に舟が打ち上げられていた。
東日本大震災から1日半が過ぎた2011年3月13日未明、記者は岩手県釜石市に入った。津波による市内の死者・行方不明者は1千人を超えることになる。
釜石港が近く、周囲にがれきが広がった釜石小学校はこの日、安堵(あんど)に包まれていた。
「子どもたちは全員、無事だったんです」
翌14日に訪れた記者に、加藤孔子校長(当時53)はそう語った。
校舎は高台にあり、津波の直撃は免れた。しかし、震災当日は午前中で授業を終え、児童はすでに下校していた。
全校児童184人はどうやって命を守ったのか。あれから14年。今春、岩手県に赴任した記者は、加藤さんと再会した。
予定調和の訓練を見直す
盛岡市出身の加藤さんが、最初に赴任したのは釜石市の平田小。海のそばにあったが、津波を意識することはほとんどなかった。
その後は内陸での勤務が続き、08年4月、校長として初めて赴任したのが釜石小だった。
釜石は津波常襲地域で、学校の経営計画に津波防災を新たに加えた。
地域を知ろうと「津波防災安全マップ」づくりから始めた。児童が通学路を歩き、避難場所や危険箇所を書き込む。地図を校内に掲示し、情報を更新していった。
避難訓練も見直した。「机の下にもぐり、校庭に避難し、校長の話を聞く」といったものでは学校外での災害に対応できないからだ。
市に頼み、校区だけに緊急地震速報と津波警報の訓練放送を流してもらった。
08年から3年連続で「下校時津波避難訓練」を実施した。
1年目は親子で避難。2年目は児童だけで集団下校した。3年目は10年10月。震災5カ月前の訓練になり、児童は安全な場所を見極める判断力を培っていった。
真偽不明のうわさ、心配は極限に
11年3月11日午後2時46分、激しい揺れが襲った。「津波が来る」。下校した子どもたちは大丈夫か。心配は尽きなかったが、学校は避難所に指定されている。「今できることは避難者の受け入れ」と心を決めた。
教職員とともに校舎の安全を確認し、体育館や教室にマットや毛布を運び入れた。
市民が続々と避難してきた。地震から30分が過ぎると、津波は学校の下まで押し寄せた。寒い日だった。発電機で電気を引き、ストーブを借り、プールの水をバケツリレーでトイレに運んだ。
「釜石小のジャージーを着た…